日本辺境論 (新潮新書)
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商品の詳細
- Amazon.co.jp ランキング: #49 / 本
- 発売日: 2009-11
- 版型: 新書
- 255 ページ
エディターレビュー
内容(「BOOK」データベースより)
日本人とは辺境人である―「日本人とは何ものか」という大きな問いに、著者は正面から答える。常にどこかに「世界の中心」を必要とする辺境の民、それが日本人なのだ、と。日露戦争から太平洋戦争までは、辺境人が自らの特性を忘れた特異な時期だった。丸山眞男、澤庵、武士道から水戸黄門、養老孟司、マンガまで、多様なテーマを自在に扱いつつ日本を論じる。読み出したら止らない、日本論の金字塔、ここに誕生。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
内田 樹
1950(昭和25)年東京都生まれ。東京大学文学部卒。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
カスタマーレビュー
我々、日本人を感情的にする源は・・・辺境人としての文化的劣等感である。That’s it!
日本人の”日本人とは何か“というアイデンティティ探しの多くの奔走は滑稽である。なぜなら、大見えを切って…かくなる理念によって”我が国“が建国されたのではないことが明からである。全ての文化は他の地からの伝搬、伝承であり、我が国民が納得しうるオリジンなどないからである。
本書は、日本人の“おのれの理想・行動の一貫性よりその場の親密性を優先する”などの日本人特有(滑稽)ともいえる精神・行動特性を論じ、一見高邁であっても・・・それは、文化的劣等感の裏返しであり、劣等感を克服できずにいまだに苛まれている。だから、周りの動向を敏感に察知しながら生きざるを得ない“辺境人=日本人”であると述べる。著者は、これらの事情を先人の研究を整理しながら…多くの話題について述べている。
著者のように自らを辺境人の一人と認め、その精神空間で楽しまれるのもご自由です。日本人は辺境国であることのメリットを十分に受けてきたが・・・グローバルな世界ではどうでしょうか。
原爆の我が国における開発は実際に行われましたが、極初期段階で当然挫折(この話は、それに携わった今は亡き方々に直接伺いました)。本書にあるように、もし日本が原爆をアメリカより早く開発して保有していたら、当然の如くに使用していたことでしょう。その部分の記述に対するレビューアーの稚拙な反応にビックリ!我が日本国は“同胞の命”さえ“物質に過ぎない兵器”の代わりとした(神風特攻隊、人間魚雷回転など)・・・この事実はあまりにも重いと思うが。また、ブッダの本当の教え(原始仏教)は、ブッダの死後約100年で滅び、インドにおいても忘れ去られた。それを復元・再構成したのは19世紀のヨーロッパの仏教研究者である。日本人がそのことを知ったのは明治以降のことで、元来の仏教は、皆さんが普通に知る日本仏教とは違うものである。これは、知っておかねばならない世界の常識である。
本書のような思考をされたことのない若者には読んで、更なる自らの考察に進んでもらいたい。
考えるきっかけに
『街場のアメリカ論』『街場の中国論』において、独自の視点からかの両国家を論じてみせた内田樹。両書は、この本に行き着くための道程にあったのかもしれない。本書は著者満を持しての日本論だ。
数多ある「日本論」「日本人論」が、さもすれば本質主義に陥ってしまう危険を孕む中、内田が日本を論じる上で注目するのは、その国土の置かれた政治的心理的な辺境性だ。
詳しくはぜひ本を手に取ってみてほしいが、話はいつものごとく著者の欲望おもむくまま縦横無尽に広がりを見せ、武道論や教育論へも脱線する。時にその読みやすさは、エッセイに分類してもよいようにも思えてくる。
そのため、著者自身がさんざんエクスキューズする通り、この本の説くことの学術的な信憑は薄いのかもしれないし、その筋の専門家にすればツッコミどころ満載なのかもしれない。
しかし僕が思うに、内田さんがこの本でなしとげたかったのは、実体的な「日本の真の姿」をつまびらかにすることなどではなく、我々にとってもっと深層にあるはずの「私は何者で、どこかきたのだろう?」という、地球上で人間だけに許された根源への問いを誘発することだったのではないだろうか。
そんな風に思うのは、本の中で繰り広げられる知性の躍動に肌が触れていると、書いているときの内田さんの興奮が読んでいるこちら側にも伝わってくるように感じられたからだ。専門知の習得よりもまず、考えることや書くこと、そして本を読むことがこんなに楽しいことなんだというのを、内田さんは書きながらパーフォーマティブに発散している。
養老孟司が帯で書く通り、もちろんこの本で日本論が完結するわけではないだろう。しかし、「この私」の立つ地盤その自明性を問うこと、思考への誘惑をこの本は内包している。思考の硬直しがちな現代において、本書でいうところの「虎の威を借る狐」にならないためにも、一読してみたい一冊。
「論」を立てるという、日本のほとんどの学者にない本来の学者らしい仕事だ。
日本人が辺境かどうかはともかく、この「辺境」という言葉には少しまだなじまないのだが、推論と想像力によって論を立てようとするところはとても評価できる。
日本のほとんどの学者は、天下りか二世学者、あるいは官僚御用達のちょうちん持ちか、オタク的で世の中のクソの役にも立たない輩がほとんど。
その意味では、一生懸命「論を立てる」という立場を堅持されていることに敬意を表したい。
常にアイデンティティを欲しがる日本人だが、たぶん、日本人にはアイデンティティというのはもともと存在しないから「ないものネダリ」となり、やがては「借り物」で羊頭狗肉になるのではないか。ただ、それが良く出ると「調停役」だったり、「道」を究める人格者になるような気がする。
表意文字と表音文字を同時に、しかも同レベルで使い分けるのは、世界中に日本人しかいない、仏蘭西などは難読症が人口の10%もいるというのは、目からうろこでした。
これからも、がんばって欲しいです。





