テクストから遠く離れて
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商品の詳細
- Amazon.co.jp ランキング: #291441 / 本
- 発売日: 2004-01-17
- 版型: 単行本
- 326 ページ
エディターレビュー
出版社/著者からの紹介
理論編これが批評だ!世界が見える!いま求められる批評の原理とは?小説の核心的<読み>を通して、テクスト論・ポストモダン理論の限界と文学思想における批評の停滞を超え、新たな普遍性の原理を提示する脱テクスト論の地平へ。
わたしはただの読者として小説を読むということだけを心がけた。この本にもしほんの少しの新しさがあるとしたら、ただの読者が小説を読むという経験だけで、バルト、デリダ、フーコーといった「作者の死」の論者たちの説に、向き合っていることだ。ここに脱テクスト論と呼んでいるものこそ、これまでの作者還元主義批評に対する、ありうべき否定の論、その克服の論なのだと、わたしは考えている。――あとがきより
内容(「BOOK」データベースより)
いま求められる批評の原理とは?小説の核心的「読み」を通して、テクスト論・ポストモダン理論の限界と文学思想における批評の停滞を超え、新たな普遍性の原理を提示する脱テクスト論の地平へ。
内容(「MARC」データベースより)
いま求められる批評の原理とは? 小説の核心的「読み」を通して、テクスト論・ポストモダン理論の限界と文学思想における批評の停滞を超え、新たな普遍性の原理を提示する本格文芸評論。
カスタマーレビュー
蛆虫たる私の生の実感はテクスト論に勝る
テクスト論批評には積極的に価値判断について語ることができないという弱みがある。大江『取り替え子』をめぐる批評をいくつか傍証に挙げたのち、加藤は「読みの場の実感」を足場にテクスト論批評の「作者の死」概念をめぐってR.バルト、デリダ、ラカン、フーコーを検討・批判し、自論を対置・展開する。各々の思想について、論点を絞った非常に読みやすい要約をほどこしている(特に、加藤理論の説明に援用される形ではあるが、ラカンを解説した部分は既存のラカン紹介にはないスッキリ感を持っている。)。
加藤によれば、「作者」概念は実体的な面と実定的な面を持ち、従来の「作者の死」論は「盥の水を捨てようとして赤児を捨て去」るように双方とも切り捨てたが、発話-受話行為の信憑を成り立たせ、積極的に何かが語られるためには、基盤として、あたかも幻肢のような形で「実定的な作者」が必要であるのだ(というより、文学テクストを読む時に我々は実感として「仮構の発話者」というものを想定しているではないか)という。この実例としての『海辺のカフカ』の読解は納得できる爽快なものだ。
ただ、末尾で少々筆が滑ったのか、フーコーの主体化論をやや単純・矮小化して(それでもかなりきちんと)提示したあとで、いま・ここでの「ただの蛆虫としての生」というものに批判力の源泉としての可能性を託しているかに読めるところがある。この無定型の「生」称揚で論が終わるので一読後、やや拍子抜けな感じが残った。
とはいえ、本書における加藤のスタンスは終始誠実でまっとうなもので、韜晦の姿勢はいささかもなく(R.バルトの概念の不徹底をR.バルトの徹底的な読みによって示す「脱構築的アプローチ」だって当然、ありうるのだが、そうはしない)この本から読者が受け取る加藤像は、清々しい姿だろう。
文学批評の新たなパースペクティブを提示
大変刺激的な本である。文学批評に置けるテクスト論の限界を最近の文学作品によって検証し、「作者の像」「虚構言語」「換喩的読解」といった概念の導入により、文学批評の新たなパースペクティブを提示している。ポストモダニズムの形式化された言語観に疑問を投げかけ、ラカン、フーコー、デリダのテクスト論解釈をあらためて読み直していく。その着想は大胆で検証作業は至って慎重だ。久しぶりに面白い本を読んだ気がする。
講談社から刊行された本書は理論編であり、臨床編となる「小説の未来」は朝日新聞社から刊行されている。装丁は共に南伸坊が手掛けていて統一感がある。こうした試みも面白い。
シーニュ周辺に対する誤解
ソシュールの記号論批判を含む、シンボリズムに対する疑問が論の基盤になっているが、
ソシュールが発明した「シニフィアン」、「シニフィエ」という二つの概念について決定的な誤解をしている。
あまりの誤解ぶりにびっくりしてしまった。
この本を読まれる方は、事前に「記号論ハンドブック」あたりでソシュールについての解説を読まれることをおすすめする。
私には、作者の加藤氏が、ウィトゲンシュタインの苦しんだ「語りえぬもの」について、クリティカルな苦しみを感じていないように思える。





