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漱石の漢詩を読む

漱石の漢詩を読む
By 古井 由吉

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  • 発売日: 2008-12
  • 版型: 単行本
  • 165 ページ

エディターレビュー

内容(「BOOK」データベースより)
漱石の漢詩は、日本近代文学の比類ない独立峰。作家古井由吉が、漱石文学の精髄を、漢詩に突き止める。日本語の個性とその衰弱は、何に由来するのか。失われた日本語の可能性を照らし出す、漢詩のポエジーと象徴。死を前にして、解き放たれた漱石の想像力が、見えない世界の調べと映像を結晶させる。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
古井 由吉
1937年生まれ。東京大学大学院独文学専攻修士課程修了後、金沢大学で講師を、立教大学で助教授を勤める。70年、『杳子』で芥川賞受賞。以降、作家活動に専心する(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

最後の風景5
吉川幸次郎氏の「漱石詩注」が純然たる訓詁の学であるのに対し、古井氏の本書はそれを踏まえつつ漱石の小説作品(特に「明暗」)やエセー(「思い出す事など」)と関連させながら漢詩創造のプロセスに迫った論である。読んでいて感じるのは漢文・漢詩文を自由にあやつることのできた過去の知識人たちがどれだけ豊かなものを抱えていたかということであり、またそれを失いつつある(既に失っている)現在の日本語に対して古井氏が抱く深刻な危機意識である。漱石の「則天去私」がどれだけ屈曲に満ちたものであるかが漱石の漢詩を通じて見えてくる。遺作「明暗」を執筆しつつ漢詩創作を続けていた漱石の死の床につくまえにものした最後の文学的表現が漢詩であったことは何を意味するのか?漱石文学だけでなく現代日本語の内包する危機について深い洞察に満ちた書である。

「日本語の再生のために」というむすびに危機感があらわれています5
 日本語という、普段、ぼくたちが考える基礎となっている言語体系が、どれだけ漢詩に依存しているのか、少し考えれば誰でもわかります。でも、そこから離れつつある。これは、とてつもなく大きな問題だと古井さんは考えているようです。「前口上」に書かれているように、日本語は和文、漢文、漢字熟語で成り立っていて、わたしたちは普段から漢字から意味を引き出すために変換したり翻訳しています。《これには相当な精神のエネルギーがいる》という指摘は新鮮でした。この言葉のなかに、最近増えてきた精神疾患の要因のひとつも隠されているような気がします。

 「日本語の再生のために」と題したむすびで古井さんは、珍しく政治家の言葉に対して「論理も不明快だし、どこに力点があるかもわからない」と非難します。これには驚きました。「政治家」なんていう言葉を古井さんが使ったのは初めて読んだかもしれません。それもこれも、漢文の素養が足りないからだと断じています。

 解説されている漱石の漢詩は、ひとつは漱石が胃潰瘍で大量吐血して倒れた後、人となって初めて安静の時を得たという気持ちになり、その心境を漢詩で表現した一群。もうひとつは『明暗』の執筆最中の最晩年。死の直前になって、そうした気持を漢詩に託さざるを得なかった時代の詩。

 どちらもいいですが大量吐血して、ひとり病の床から空を眺めている時の《仰臥 人 唖(おし)の如く/黙然として大空を見る/大空に雲動かず/終日 杳(はる)かにして相い同じ》なんていうのはしみじみいいな、と思います。

漱石内面読みの確かさ5
 本書を象徴するような「末期の吟」を要約してみたい。
大正5年11月20日の詩。翌々日から病床につく。(12月9日逝去 50歳)
漱石最晩年の漢詩は、ほとんどが七言律詩。この八句形式の尾聯二句を書き下し文にすると、
「眼耳双つながら忘れ身も亦た失い/空中に独り唱う白雲の吟」
 この部分の典拠として『方術列伝』「薊子訓」を引いてこう述べている。神仙の術を心得た人はこの世を見限り、仙人の郷に入り、二度と帰ってこない。そのとき、どうやら特に別れの言葉を交わさなかった。ただ、その日あちこちに白雲が湧いた‥ここのところを漱石は思い起こして最後をこう結んだと推定する。「自分が世を去ったその徴に、あるいは生きている人たちへの挨拶に、あちこちに白雲を立たせた」
 漱石は最期の境になって文学的境地「空中に独り唱う白雲」をさらりと詠ったとみる。言わずとも「則天去私」を暗示していよう。これが専門の漢文学者ではない内向の作家古井由吉の【満を持した】結語とみたい。